文具で楽しいひととき
えい出版社
なぞり書きで楽しむ文豪の名作
私は字が汚い。別に謙遜している訳ではなく、正真正銘に字がうまくない。自分の字とは長い付き合いである。歩き方が急に変えられないように、自分の字もすっかり自分に染みついているものなので、なかなか変えられるものではない。これはこれで受けとめてつきあっていくしかないと、コンプレックスを感じつつ過ごしてきた。
その考えが大人になって万年筆で書くようになって、少しだけ変化した。自分の字の見え方が変わったきたのだ。万年筆というものは、それまで手にしてきた他の筆記具とは違っていた。一言で言うなら、優しさがあった。万年筆で書くようになって自分の字が少しだけ味わいがあるように見えて、ちょっとだけ好きになれた。とは言っても、万年筆で急にキレイな文字が書けるようになった訳ではない。相変わらずの悪筆のままなのだが、万年筆には、私の汚い字を優しく包み込んでくれる包容力のようなものがある。そう私は感じている。ということもあり、世の中の「美文字」の類のものには全く関心がなかった。歩き方と書き方はこのままでいいと、ほぼ諦めていた。
そんな時に手にしたのが、この「なぞり書きで楽しむ文豪の名作」という教本だった。美文字の教本だったら、たぶん私は反応しなかっただろう。「名作」となっていたので、どれどれどんなものだろうと、興味がわいた。
■ 読んでから、なぞり書きしていく
この教本には21編の名作が掲載されている。たとえば、樋口一葉の「たけくらべ」、尾崎紅葉の「金色夜叉」、梶井基次郎の「檸檬」などなど。それぞれの名作の全文ではなくごく一部、教本のページにして4ページほどだ。構成はまず、扉ページで名作たるゆえんの解説がある。次に読むためのページがあり、それとは別になぞり書きページという流れになっている。最初に名作を読み、その後に書くというステップだ。
こうした美文字教本の類はほとんどやったことがなかったので、はたしてどんなものなのだろうかと恐る恐る取り組んでみた。
■ 色々な万年筆で楽しめる
はじめの一遍目では、ペリカンM400(EF)でなぞり書きをしてみた。心を落ち着けて一画一画ずつペン先をなぞり書きガイドに沿わせて丁寧に書いていく。そうか、「出」という文字は少し外側に広げて書くのか、などと新しい発見をしながら書いていく。
「雪の夜」小林多喜二 ペリカン スーベレーン M400 EF
実際にやってみた感想は、読むと書くはこんなにも違うものなのか・・・ということだった。そもそもが使っている体の部分が違う。読む時は目で、書く時は手を主に使う。さらに言えば、脳も違うところを使っているように感じられた。だからだろうか、読んでから書くということで名作がより深くしみこんでいくような気がした。
それから、あたり前の話だが、かかる時間も全然違う。たとえば一行を読むのはほんの数秒しかかからないが、書くとなると1分近くもかかる。書くことでじっくりと名作に向き合うことができる訳だ。作家の創作の一端を追体験できるようでもあった。そしてなにより、なぞり書きで次々に美し文字が生み出されていくのはとても満足感がある。
一遍を書き上げるのにかかった時間は、私の場合は一時間弱ほど。1本の万年筆を手に一遍を書き上げていく。これが万年筆としっかり向き合う場になる。二編目以降、パイロットカスタム743 フォルカン、EF、セーラー万年筆プロフィット21 長刀研ぎなど、色々な万年筆を手に一遍ずつ書いていった。太文字系だと、なぞり書きガイドラインをそれこそ塗りつぶさんばかりで書いていく。一方EFでなぞるとガイドラインが書き込んだあとも見えるような恰好になる。それぞれの太さで違うなぞり書き体験となる。どの万年筆が正しいという問題ではなく、それぞれが正しく、違う楽しさがあった。
「津軽」太宰治 パイロット カスタム823 B
「なめとこ山の熊」宮沢賢治 パイロット カスタム743 フォルカン
「野菊の墓」伊藤左千夫 パイロット カスタム743 EF
「田舎教師」田山花袋 セーラー万年筆 プロフィット21 長刀
「たけくらべ」樋口一葉 パイロット カスタム743 ウェーバリー
「金色夜叉」尾崎紅葉 セーラー万年筆 プロフェッショナルギア M
私はふだんよく使う万年筆を4本に絞りこんでいる。逆に言うと、あまり出番のない万年筆も結構ある。いやむしろ、そちらの方が本数は多い。これはたぶん私に限らず万年筆を愛用されている方も同じなのではないだろうか。今回、この教本を取り組んだことで、ふだんあまり出番のなかった万年筆のとてもいい活躍の場になるのを感じた。これまでは、そうした万年筆はたまに私の手に握られたとしても「土橋正」と自分の名前を書くくらいしか出番を与えることができなかった。この教本という場を使って手持ちの万年筆を順番に全て使ってみたいという気持ちがふくらんでいった。
キレイに書くために紙面をフラットにする必要がある。そのために下に本を敷くとよい。
■ えんぴつも・・・
万年筆ばかりでなく、えんぴつでもなぞり書きが楽しめる。ふだん愛用しているトンボ MONO 2Bで書いてみた。えんぴつはトメ・ハネ・ハライが出しやすいので万年筆とはまた違った楽しさがあった。なぞり書きというのは、万年筆の時でもそうだったが、ガイドから外れてはいけないという緊張感が生まれ、いつもより力が入りがち。そのためえんぴつで1ページを書ききると、芯先はすっかり丸みを帯びてくる。私は1ページごとに肥後守でシャーシャーと削ってなぞり書きを進めていった。万年筆はインクの乾きを少し待ってやる必要があったが、えんぴつはその心配がないので少しだけ速いペースで書いていける。
「武蔵野」国木田独歩 トンボ鉛筆 モノ 2B
*
私はこのなぞり書きを仕事の合間に取り組んでいる。午後の4時くらいの頭も体も少し疲れたなというタイミングだ。以前、休憩の時は、もっぱら本を読んだりして過ごしていた。その代わりにこのなぞり書きをしてみた。これが意外と頭がスッキリしてリフレッシュできた。やっぱり脳の違うところを使っているからなのだろうか。まだ6編ほどしかなぞり書きをしていないが、フト仕事で文字を書いていると、アレッ自分の字がすこしだけ形が整ってきたかな??と思う瞬間が幾度もあった。名作の一端に触れながら、しかも手持ちの万年筆としっかり向き合え、さらには字も少しだけ整うなんて、これは一石二鳥ならぬ三鳥だ。
このなぞり書き名作シリーズは現在、女流作家編、夏目漱石編、方丈記編などもある。個人的には日本の名作だけでなく海外の、たとえばヘミングウェイなどもあったら楽しいのにと思う。
*「なぞり書きで楽しむ文豪の名作」 1,000円+Tax
*「なぞり書きを楽しむ」シリーズ
関連リンク
「アイデアのつくり方」
「自分だけの万年筆をあつらえる」ペリカン スーベレーンM800 by フルハルター
「万年筆の極細楽園」パイロット カスタム743 極細(EF)
文具コラム ライブラリー
pen-info SHOP